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楊定 (仇池)[よう じょう]
楊 定(よう じょう)は、後仇池の初代君主。父は楊仏奴〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P146〕。祖父は楊宋奴〔。曽祖父は前仇池の第2代楊難敵〔。妻は前秦皇帝苻堅の娘〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P143〕。 == 略歴 == 祖父は355年の内乱で殺され、このため父が前秦に亡命して右将軍として仕え、楊定も尚書・領軍将軍として前秦に仕えて皇帝苻堅の娘婿になった〔。383年10月の淝水の戦いで苻堅が大敗した後も前秦に仕え続けた〔。385年8月、苻堅が後秦により殺害されたため楊定は部衆を率いて隴右に逃れ、11月に歴城(現在の甘粛省西和県)に移って〔、龍驤将軍・平羌校尉・仇池公を自称し自立、後仇池政権を建国した〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P144〕。 楊定は東晋に服属して自称していた称号全てを認可され、390年には天水、略陽、隴城、翼城など泰州を占拠し隴西王を自称するなど勢力を拡大した〔。だがそのために西秦の乞伏乾帰と衝突し、394年10月に合戦となり敗北した楊定は殺害されてしまい、隴西も失った〔。 従兄の楊盛が跡を継いだ〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊定 (仇池)」の詳細全文を読む
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